会津漆器について



わが国の漆工の起源は縄文晩期と思われます。

会津においては、東日本屈指と言われる大塚山古墳から、竹編みを漆で固めた櫛や、持手の部分を漆塗りにした鉄の剣や黒と朱で塗られた靭などの出土がありその頃から漆が使われていた証です。



仏教と漆工

仏教と漆工の関係は深く、仏像や仏具の製作が漆工の進歩を促しました。 会津には仏教の遺跡が多く、永正の頃(1504~1520)の磐梯町の恵日寺は壮大なものでした。 恵日寺と漆器を結び付けるものは、遺跡としては見つかりませんがベースには何らかの影響があったと考えても良いと思います。



芦名時代の漆工芸

会津漆器に関しての最古の文書記録は、芦名氏11代盛信の宝徳年間(1449〜1451)と13代盛の 文亀年間(1501〜1503)のものがあり、その中で、前者では領内農民に漆樹を植栽させ、官用として漆蝋を買い上げ、後者は轆轤挽の木地に赤黒漆を塗り椀、盆、鉢などを作らせたと記してあります。 室町末期のもので、伊佐須美神社の国重要文化財の神興と自在院の経櫃が在り、塔寺八幡宮 の漆塗りの戸や金箔の柱が在りました。これは会津に相当の漆工技術が育っていたと思われます。



蒲生氏郷による漆工の育成

会津漆器が産業として基礎を固めたのは、天正18年〈1590〉蒲生氏郷が会津に入封してからです。 氏郷の前任地、近江日野より木地挽5人を連れてきて七日町に屋敷を与え、慶山で木地を挽かせ、塗師は同国愛知郡畠村より吉川和泉守を頭に46人を引き連れて若松、小荒井、喜多方に住まわせました。 そして大町三之町東北に、間口六間、奥行き15間総二階建て、塗り大屋敷と称された伝習所に職工を集めて、日野椀の製法を伝授したと言われて居ります。 現在の当関漆器店辺りです。 このようにして氏郷は漆器を藩の重要な政策として位置付けて保護育成したのです。



漆蝋保護対策

漆樹の植栽は、漆を塗料として大量に消費するようになる以前は、漆より漆蝋を採取する事が主な目的でありました。 漆蝋は高級な照明具として珍重された事は、天文年間(1532~1555)宇都宮の豪商が会津より蝋を買い付けたり天正二年(1574)上杉景勝が越後蝋燭を三千挺家康に、同四年駿馬三頭と蝋燭千挺を芦名盛隆が信長に、また氏郷が秀吉に蝋燭を献上している事でもわかります。 次第に漆器業が発達して来ると漆の樹が不足して来た為、歴代の領主たちは、積極的に栽培を奨励しました。 また太閤検地では、漆の樹にも年貢がかせられました。 蒲生氏郷は城下町発展策の楽市楽座の制にもかかわらず、蝋及び漆には、依然として座を認め年貢は蔵納めとしました。 徳川幕府が江戸に開かれると、工芸文化や産業等が江戸中心となってゆき、参勤交代がその役目を果たして行きました。 江戸の大市場を見逃すわけは無く、生産出荷を整える者が出てきました。 海東五兵衛なる塗り師は、大和町に間口40間、奥行き20間の大建物で製造した漆器を総て江戸に輸出し、その荷駄は街道の宿駅と宿駅を貫いたので、街道五兵衛の異名を取りました。



藩政期の漆器体制の確立

保科正之の会津入りは寛永20年(1643)で、四代将軍家綱の後見人でもあったため幕藩体制確立の先進地として、総てのものを中央と直結する政策をとりました。 その後、各藩主とも漆と蝋を米に次ぐ重要物産として、また重要な税収源として保護育成をしました。幕末まで継続された享保六年(1721)の移出禁止令には、木地、蝋絞り粕ならびに漆の実を移出禁止としたうえで、他領よりの入荷は良しとしました。 また藩は、寛政5年、(1793)に江戸中橋槙町に会津物産会所を設立し、藩による専売化と問屋化を推し進めました。また技術向上の為、藩が主導して京都より工人の木村藤蔵を招聘し、消金蒔絵の伝習をはかったり、また別の工人には、金粉、金箔の製造を、上方より塗錆師を呼び寄せりして、漆工人の育成に全力をあげました。 享保2年(1802)には、幕府の勘定奉行に願い出て、長崎貿易で卵置き盆や蒔絵金銀梨地重や吸物椀、煙草盆などを輸出をするようになりました。 このように会津藩が漆器に傾注して行く理由は漆器の生産拡大だけでなく、西南諸藩で生産される櫨(ハゼ)の樹から採取される蝋が安価なため、会津の漆蝋が次第に駆逐され行きつつあってやがて決定的な打撃を受ける事になって来た事が大きな理由のひとつでした。 しかし藩の財政は、寛政の改革にを経て文政後期の頃には永年の借財返済の見通しが立つようになり、幕末頃になると領主による商品の直接支配に替えて、特権商人、問屋を保護して市場の開拓をさせるようになったため、漆器の生産は飛躍的に発展しました。